仮面をつけたまま、名前もいらない

仮面をつけたまま、名前もいらない

「本名じゃなくていいんです」
「顔も……今日は、見せたくない」

そう伝えたとき、電話の向こうの彼は少しだけ間を置いたあと、
落ち着いた声でこう言った。

「わかりました。じゃあ今夜は、“誰でもないあなた”のままで」

その返しに、私は少しだけ――ほんの少しだけ、安心した。

 

ホテルの一室。
鏡張りの壁に、私のシルエットがぼんやり浮かんでいる。
仮面をつけたままの自分が、
まるで誰かの秘密を覗き見ているようで、
ふいに背中がざわついた。

ノックの音。
そして、彼が入ってくる。

「こんばんは。“名前のない奥さま”」

その言葉に、唇がわずかに緩む。
何者でもないはずなのに、たしかに“誰か”として見られている気がして。

 

マッサージが始まると、
彼の手はいつも通り、丁寧だった。
けれど、その丁寧さの奥に、どこか“遊び”のようなリズムがある。

「仮面、似合ってますよ。…でも、その奥の目のほうが、もっと艶がある」
耳元で囁かれた瞬間、
肌が、呼吸が、音もなく震える。

視線を交わさない分、
感覚が研ぎ澄まされていく。
彼の指の温度、息遣い、タオル越しの圧。
そのひとつひとつが、心の深い場所に響いてくる。

 

「目隠しは苦手ですか?」
「……でも仮面は平気なんですね。面白い」

彼はそう言いながら、
太ももに手を滑らせていく。
肌にじかに触れていないのに、
まるで何かを咥えられたような感覚が、じんわりと下腹に広がった。

“咥える”という行為が、
ただの動作じゃないことを思い出した。
そこには、預けることも、受け入れることも、すべてが含まれている。

唇ではない、手のひらでもない、
もっと奥の“欲”で、私は彼の指を咥えていたのかもしれない。

 

彼がふいに囁く。
「名前を呼ばない代わりに……どこが気持ちいいか、ちゃんと教えてください」

私は、言葉で返さなかった。
でも、身体は正直だった。

肩がすくみ、脚がわずかに反る。
その反応だけで、彼は満足そうにうなずいた。

 

顔を見せていないのに、
すべてを見透かされているような気がした。

むしろ仮面があるからこそ、
私はいつもより深く、彼に近づいていたのかもしれない。

素顔の私より、
素直な私が、この夜には存在していた。

 

「また会えますか?」と彼が聞く。
「もちろん顔は見なくてもいいし、名前も知らなくていい。
 でも、あなたのその声と反応だけで、…俺はずっと覚えてますから」

彼がそう言って去ったあと、
私は鏡の前で仮面を外した。

鏡に映るその顔は、
誰でもない私――ではなかった。

あの夜、“女”としてはっきりと目を覚ました、
唯一無二の私だった。