届を出した帰り道、“最後に誰かに抱かれたくて”

役所の窓口は静かだった。
午後3時。
記入済みの離婚届を、淡々と受け取った職員の表情には、当然ながら何の感情もない。

けれど、私の手のひらだけが、ずっと汗ばんでいた。

結婚生活十年。
思い出よりも、空気のようになっていた関係に、
今日、ようやく終止符を打った。

でもなぜだろう。
清々しさよりも先に湧いてきたのは――
誰かに抱かれたくて仕方ないという衝動だった。

 

「自分を“女”として扱ってもらいたい」
この思いが、今日に限ってどうしようもなく強かった。

そのままカフェに入る気にもなれず、
私は駅の近くのホテルにチェックインした。

スマホで予約した“彼”は、プロフィールに「包容力と対話力が売り」とあった。
正直、会う前は半信半疑だった。

けれど、ノックの音とともに入ってきた彼の穏やかな笑顔を見た瞬間、
私は――
「今日は、甘えていいんだ」と思えた。

 

「お疲れさまでした」

その言葉だけで、涙が滲んだ。
何に疲れていたのか。
本当は、もうわかっていたのかもしれない。

彼の指が、そっと頬に触れる。

「今日は、何も話さなくていいです。
 あなたの気持ちが落ち着くまで、ただ寄り添います」

 

私の肩にかけられた毛布。
指先が、髪を撫でるように動いていく。
その優しさが、全身に沁みていった。

 

「ひとつだけ、訊いてもいいですか?」

「……はい」

「抱かれたかったのは、心ですか? 身体ですか?」

その問いに、私は目を閉じて、答えた。

「……どちらもです。
 今日だけでいいから、“誰かのもの”になりたくて」

 

その言葉に、彼の瞳がわずかに揺れた。

「わかりました。
 じゃあ、今夜は“僕だけのあなた”でいてください」

 

彼の手が、肩からゆっくりと滑り落ち、
ワンピースのファスナーを丁寧に下ろす。

下着の上から撫でられる背中。
何年ぶりだろう、
誰かに“美しい”と言われたのは。

 

「肌が、すごく綺麗ですね」
そのひとことに、喉の奥がぎゅっと詰まる。

「そんなふうに、見てもらったの……久しぶりです」

 

彼の指先が、鎖骨をなぞる。
そして、首筋に唇を落とす頃には、
私の身体は、まるで乾いた土が水を吸い込むように、
彼の温度を受け入れていた。

 

「今日は、僕が全部抱きしめます。
 だから……何も我慢しなくていいです」

 

時間がゆっくりと、なだらかに流れていく。

汗ばんだ額を指でなぞられ、
耳の奥にそっと名前を呼ばれるたび、
心のひび割れが、少しずつ癒えていくのがわかった。

 

そして、すべてが終わったあと。
彼が静かに抱きしめてくれた。

「あなたが今日、強くなったこと、
 誰よりも僕が知っています」

 

涙が、するりと落ちた。

それは、悲しみでも未練でもなかった。

ただ、「女」として、
ちゃんと“抱かれた”夜に滲んだ、再出発のしずく。

 

あの窓口では思い出せなかった自分が、
今、ここで息を吹き返している。

たった一夜でも、
私の人生は、静かに、確かに進みはじめたのだった。