本当に感じたことなんて、なかった

「じゃあ、おやすみ」
夫はそれだけ言って、寝室のドアを閉めた。

結婚して12年。
レスになってからは、もう7年以上が経つ。
たまに会話はあるし、仲が悪いわけではない。
でも、私に触れてくることは、もうない。

化粧水を塗った頬に、自分の指先が触れる。
それだけで、妙に冷たい気持ちになった。
“触れる”ということが、こんなに遠いなんて。

 

スマホの履歴には、数日前に何気なく検索したままのタブが残っていた。

「女性用風俗」
「女性が感じられないって、異常?」
「自分の身体を知りたい」

その夜、私は予約ボタンを押していた。
何を期待していたわけじゃない。
でも、自分の中にずっとあった空洞を、見ないふりができなくなっていた。

 

待ち合わせ場所は、静かなマンションの一室。
セラピストの男性は、30代前半。
落ち着いた口調で、ゆっくりと話しかけてくれた。

「緊張、してますよね」
「…はい。ごめんなさい、なんか、怖くて」
「大丈夫ですよ。今日のことは、忘れても構いません。
ただ、自分に触れてあげる時間にしてほしいんです」

その言葉に、少しだけ胸がゆるんだ。

 

ベッドの上に横たわると、
彼は丁寧に、私の脚からマッサージを始めた。
足首、ふくらはぎ、膝、太もも。

オイルの温度が、肌を伝ってじんわりと広がっていく。
不思議と、恥ずかしさはなかった。
それよりも、“自分の体温”というものを、久しぶりに感じていた。

 

「触れてて、気持ちいいって感じますか?」
「……わかりません」

正直だった。
それまで誰かにされて“気持ちいい”と感じたことなんて、あっただろうか。
ただ、そうするものだと思っていた。
終われば、終わる。
気持ちいいかどうかなんて、考えたことがなかった。

 

「いいですよ。今は、感じないことに、気づくことが大事なんです」

彼はそう言って、そっと私の手を取り、自分の胸の上に乗せた。
ドクン、と鼓動が伝わってくる。
この手は、人を癒すために使われてきたんだ――そんな感覚。

 

手のひらが、私の下腹部に触れたとき、
反射的に呼吸が浅くなった。

「怖くないですよ。
これは、あなた自身が自分を知っていく時間ですから」

彼の声は、ずっと変わらず、静かだった。
ただ、そこに“自分を責めないでいい”という許可のようなものがあった。

 

触れられるたびに、
身体のどこかが、ふっと柔らかくほどけていく。
“感じない”と思っていた場所が、
じわじわと熱を帯びていくのを感じる。

ああ――
「感じてる」って、こういうことだったんだ。

息が漏れる。
喉の奥から、自然と、ため息ともつかない声がこぼれる。
指がひとつ、肌を撫でるたびに、
身体が、勝手に反応していく。

 

「……本当に、感じてるんですね」
「……はい。初めて、かもしれません」

その夜、私は抱かれなかった。
でも、確かに“触れられた”。

長い間眠っていた感覚が、
ようやく、目を覚ました気がした。

翌朝、鏡に映る自分の顔が、少しだけ柔らかく見えた。
その変化が、すごく嬉しかった。