その夜、私は“忍び足”のまま生きていた。
寝室では、夫と子どもが並んで眠っている。
その隣で小さく息を殺して、私はスマートフォンの光だけを頼りに服を選んでいた。
最低限のリップを塗り、髪をくくる。
足音を立てないよう、スリッポンをつま先でつかむ。
深夜1時。
私は、母でも妻でもない私を迎えに行く。
タクシーに乗り、
「○○ホテルまで」と告げると、
運転手がバックミラーで一度だけこちらを見た。
でも何も言わなかった。
私がどんな顔をしているのか、自分でもよくわかっていた。
後ろめたさと期待が混ざった、どこか艶っぽい顔。
ホテルの部屋に入ると、彼はもういた。
「こんばんは。来てくれて、嬉しいです」
ただそれだけの言葉に、
身体の奥がふっとほどけた。
彼はいつも通りの制服姿で、
私を特別扱いすることもなければ、責めるような視線も向けない。
だからこそ、私はこの場所で、
“素のままの自分”に戻れる気がした。
「背中、お借りしますね」
仰向けのままでは眠れないような、落ち着かない夜。
うつ伏せになり、タオル越しに彼の手が置かれた瞬間、
日常という名の鎧が音もなく崩れていく。
「深夜の肌って、不思議と敏感なんですよ」
「街も寝てるし、音も少ないし…感覚が鋭くなるんです」
確かにそうだった。
彼の手のひらが腰に触れたとき、
さっきまで銭湯に入っていたときより、ずっと熱く感じた。
太ももの付け根に、彼の指がふれそうで、ふれない。
“もし今、ここに触れられたら”
そう思うたびに、背中に汗がにじんでいく。
でも彼は、それを越えない。
ぎりぎりのところで止まって、
静かに呼吸を合わせてくるだけ。
「この感じ、好きですよね」
「踏み込まれない緊張感、でも…もし越えたらって想像しちゃう、その瞬間」
声が、耳の奥に届いた。
それは言葉というより、
感情を撫でられたような感覚だった。
やがて仰向けに姿勢を変え、
彼の手が、鎖骨から肩、そして胸の上を通る。
服の上からでも、鼓動の早さは隠せない。
夫にはこんなふうに触れられていない。
子どもを寝かしつけたあと、私の肌に落ちるのはブランケットの重みだけ。
今夜、私はようやく“誰かの手”で包まれていた。
「帰りたくなくなりそうですね」
「でも…だからこそ、ちゃんと帰ってください」
彼の言葉に、私は目を閉じた。
その声が、まるで“罪の許し”のように響いたから。
あと十数分後には、また“妻”に戻る。
でもその前に、
女としての私が、誰かの手に預けられていたという事実だけが、
今夜の私を満たしてくれていた。
静かにベッドを離れ、
彼が持ってきた温かいタオルで手を拭きながら微笑んだ。
「また夜に、会いましょう」
そう言って部屋を出たとき、
私は確かに思った。
“きっとまた抜け出してしまう”
深夜1時、静かな背徳に、私はもう抗えない。
