その夜、私は“誰でもない女”だった。
名刺に肩書き、ブランドバッグに似合うヒール。
会議室で部下に指示を出し、
取引先と笑顔を交わしながら、心のどこかで思っていた。
――このスーツを脱げば、誰も私を知らない場所があるなら、
そこでただ、“女”として扱われてみたい。
出張先のホテル。
部屋番号と「一人です」とだけ書いたメッセージ。
名前も、仕事も、過去も伏せたまま、私は女性用風俗のセラピストを呼んだ。
約束の時間ぴったりに、ノックの音。
ドアを開けると、
「こんばんは」と柔らかく微笑む男が立っていた。
「名前は……?」と口にしそうになって、すぐ飲み込む。
知らないままのほうが、都合がいい。
今夜だけは、“誰でもない私”として、彼と時間を過ごす。
「緊張されてますか?」
「……少し。でも、今日はそのために来たんです」
その一言に、彼は少しだけ目を細めて、
「では、心も身体も、ゆっくりとほどいていきましょう」と囁いた。
薄暗い照明に照らされたベッド。
彼の手が、オイルをのせながら背中をゆっくりと撫でる。
肩甲骨、背筋、腰のライン。
どこにも“演技”なんて必要ない。
ただ、感じることだけに集中していい時間。
「ここ、すごく反応してますね」
彼の指が、腰骨の際をなぞる。
脚が自然と浮く。
声が、喉の奥から零れそうになる。
でも、私の口から出たのは、
「もっと……して」という素直すぎる言葉だった。
脚の内側を、
ひと筆描きのように撫でられるたびに、
自分がどんどん“快感に支配される生き物”になっていくのがわかる。
「こんな風に、感じてる自分、知ってましたか?」
「……いいえ」
声が震える。
まるで身体が、知らない女になっていく。
いや、違う。
これは、もともと私の中にあった“女”が、目を覚ましているだけ。
「名前なんて、いらないですよね」
「……はい。今夜だけは、わたし、“女”だけでいい」
その言葉に、彼は黙って頷き、
私の足首を持ち上げる。
脚が開くと、冷たい空気に触れた場所が、火照っていく。
咥えるような視線――
まるで、見つめるだけで身体の奥まで知ってしまうような眼差しが、
私をもう逃がさなかった。
「どこが一番、気持ちいいか、探していいですか?」
そんなこと、聞かないで――
でも、答えたい。
「……全部、試して」
私の声が命令のように響いた瞬間、
彼の口元が、少しだけ微笑んだ。
そして、指が、舌が、
快楽の奥へ奥へと沈んでいった。
どこまで触れられたかも、
どれくらい時間が経ったかも覚えていない。
ただ、
「わたしって、こんなに感じるんだ」
「誰にも知られない場所で、こんなに声が出せるんだ」
その発見の一つひとつが、
自分を取り戻す快感に変わっていった。
朝方、ベッドに残った香りと熱だけが、
あの時間が夢ではなかったことを教えてくれた。
名前なんて、ほんとうに、いらなかった。
ただ“女”として過ごした夜――
それは、きっと、誰よりも本当の私に近かった。